大学院の講義が始まりました。
日々の臨床に加えて、講演の準備、学会発表、執筆、研究、そして家庭のこともある中で、余裕のあるスタートとは言えません。
けれど、そんな中で受けた最初の講義は、今の自分にとってとても大きな意味を持つものでした。
初回は、平和について学ぶ講義でした。
その道を深く歩いてこられた先生から、真正面から平和を学ぶ時間は、私にとってとても新鮮で、心を動かされるものでした。
私はこれまで、平和とは「戦争がないこと」だと、どこかで単純に捉えていたように思います。
けれど今回の講義を通して、それだけでは平和とは言えないのだと知りました。
持続可能で公正な社会を実現し、平和を継続していくためには、単に争いがないだけでは足りない。
社会的正義、経済的安定、多様性、教育、環境。
そうしたものが土台として支えられて初めて成り立つ「積極的平和」という考え方が、とても印象に残りました。
また、暴力というものは、目に見える直接的なものだけではないということも、深く心に残りました。
社会構造や制度の中に埋め込まれた不平等や不正義が、人や集団に静かに害を与えることがある。
そうした「構造的暴力」という視点は、これまでの自分には十分にありませんでした。
もちろん、こうした問題を一人の力で簡単に変えられるわけではありません。
現実はもっと複雑で、多面的で、さまざまな立場や背景、価値観が重なっています。
けれど少なくとも、今回の講義は、私自身の前提を少し揺らしました。
当たり前のように置いていた見方が、少し変わった。
その経験そのものが、学ぶことの意味をあらためて教えてくれたように思います。
大学院に入りたいと思った理由の一つに、漢方が平和に貢献しうる可能性がありました。
もちろん、博士号を取得することも大切な目標です。
けれど、それ以上に私の中には、漢方を軸として、子どもたちの平和な未来に貢献したいという思いがあります。
子どもたちが安心して育っていけること。
親子が心をすり減らしすぎずに日々を過ごせること。
家族が少しでも穏やかに、今を生きられること。
そうした営みもまた、広い意味では平和の一部なのではないかと、私は感じています。
これまで私は、学問を学びたいと思いながらも、実際には医学、それもさらに限られた領域の中で生きてきたのだと思います。
医学の中に身を置き、その中で考え、判断し、積み重ねてきました。
それは大切な歩みであった一方で、知らず知らずのうちに、自分の視野もまたその枠の中に収まっていたのかもしれません。
けれど、世界はもっと広く、学問ももっと広い。
いろいろな分野の人が、それぞれの方法で、人や社会を少しでもよい方向へ進めようとしている。
目指している場所は違うように見えても、その根底には、人がよりよく生きられるようにという願いが流れているのだと感じました。
一つの研究を深めるためにも、広く学問を捉えることが必要なのだということ。
その大切さを、最初の講義の時間に教えてもらったような気がしています。
大学院の始まりに、こうして自分の見方を揺さぶられる時間に出会えたことを、とてもありがたく思っています。
何のために学ぶのか。
自分の研究や臨床を、どんな未来につなげたいのか。
その問いを、これからも持ち続けていたいと思います。